皆さんこんにちは。
前回リトルエンペラー症候群について書きました。
今回はその続きのお話をしたいと思います(これは二回目の記事です)。
リトルエンペラー症候群の代表的な特徴
上記の記事でも書きましたが、以下は大まかな特徴です。
・自分でできるはずのものでも、身の周りのことは親にやってもらいたい
・自由時間に何をして過ごせばいいか分からず大人に不満をぶつける
・思い通りにならないと他人の前でも泣いたり怒ったり、反対に黙り込んだりして大人を困惑させる
・相手が嫌な気持ちになるような関わり方を悪気なくしてみんなに嫌がられてしまう
・自分の失敗でも人のせいにする
・学校に対して、親に自分の要望やクレームを言わせる
等々、よくあるものです(苦笑)。
説明前に注意点を!!
まず始めに、先に謝ります。
この記事で気分を害したという方、申し訳ありません。
これは後天的原因に基づく心理・行動様式についてのお話です。
対人関係における問題は後天的要因、つまり経験や環境から得た結果であるという可能性が高いです。
1)脳のタイプ(認知特性や感覚特性)が定型発達の人とは異なるタイプである
➡先天的要因が関係している
➡環境(他者を含む)と相互性をもちにくい
2)複雑性 PTSD と ASD の症状が類似している
➡ASD とトラウマとでは症状形成メカニズムが類似している
➡客観的には適切な環境でのトラウマ体験(主観的トラウマ体験)
➡トラウマ自体が症状に影響している
3)同じ診断名でも個人間差と個人内差(年齢による変化),つまり症状の表れ方が多様である
➡後天的要因による影響を示唆する
4)社会性(特に対人面)の発達には安定した愛着形成が必要である
➡ASDの社会性の症状にも愛着が関係している
➡そもそも社会性の発達は後天的要因が大きい
5)人間は環境に適応する(自己の欲求や安全・安心を得るための行動をとる)
➡問題行動や特性と捉えられている行動は環境への適応の結果と考えることもできる
6)環境との不適合状態が生じている
➡先天的要因により環境との不適合状態(ギャップ)が生じる(発達環境ギャップ)https://confit.atlas.jp/guide/event-img/edupsych2019/PH12/public/pdf?type=in
サラッと書いてありますが、コレ重要です。
- そもそも社会性の発達は後天的要因が大きい
- 問題行動や特性と捉えられている行動は環境への適応の結果と考えることもできる
⇧で言いますと、
- ASD等の先天的障がいの特性は、「先天的」であるが故に「持って生まれてきたもの」。よって、他者からの影響は受けにくいものである
- ASDは感覚や認知に先天的な特性を持っている。先天的なものなので時と場合、相手によって特性が出たり出なかったりするようなものではない
- そう考えると、ASDによるものと思われる問題行動の中には「先天的特性」ではないものが存在するはず(「学校ではしないけど、お母さんと一緒の時はする」とか)
- また、経験から得た「トラウマによる問題行動・症状」とASDの「感覚・認知由来の問題行動」の一部には、形成メカニズムが似ているものがある
- 同じASDでも問題行動は様々。みんながみんな、同様の問題行動を現わすわけではなく個人差がある(感覚・認知の障がいなので、流水感覚に執着したり大きい音が苦手な人が結構いる。我慢できる人もいればそうでない人もいる。執着があっても苦手はない人もいるし、その逆も然り)
- なかでも社会性の問題に関しては状況や相手、年齢等による個人間差・個人内差が大きい
- そもそも対人関係能力は、乳児期の愛着関係から形成されるもの
- ASDは自他認知になんらかの障害をもっている。しかしASDであっても親子間で愛着関係を形成できる子は非常に多い
- つまり「先天的に対人関係形成不可能」というわけではない
- 自他認知の障がいにより個人内差はあるが、ASDでも対人関係能力は発達する
- そもそも社会性や対人関係能力の発達は後天的要因の関与が大きい
- 障がい特性が原因と思われる対人問題のなかには、先天的理由ではなく「これまでの経験や環境による結果」であるものも含まれる
- 自他認知等明らかな先天的障がいがある場合でも、後天的要因も重なり不適応状態になっている可能性がある
となります。
ちなみに「ASDは感覚・認知の障がい」ですが、「ADHDは行動の障がい」と言われています。
ADHD自体には、自他認知能力そのものに問題はありません。
ADHDもASDと同様に、親子間の愛着を形成する能力を持っている子は当然多いです。
よって、対人関係能力を形成するための器はしっかりあるのです。
また、状況認知能力は「この状況でコレをするのは良くない」という判断はできます。
しかし衝動性や行動をコントロールすることが困難である為、ついつい「今してはイケナイ行動」をしてしまいます。
そして本人はやらかしの直後に
「しまった」「どうしていつもやらかすようなことをしてしまうんだろう」とショックを受けがちです。
状況や相手によって問題行動を
「やる」「やらない」 と分けることはできません。
しかしそれとは別に、経験学習に基づくリトルエンペラー状態が加わったことにより「複雑な問題行動様式を呈する可能性」は十分に考えられます。
以上より、社会性、特に対人関係に関する問題の原因は「経験や環境」である可能性が高いと言えます。
つまり障がいを持つお子さんも持たないお子さんも等しく生じる可能性があります。
障がいの程度は問わず、です。
しかし先天的な障がいを持っているお子さんにこのような症状が見られたとしても、慌てて改善しようと大人が急激に態度を変えることはよろしくありません。
特に知的重度のお子さんは「何故これまでと状況が違うのか」「なぜ突然求められる質が変わったのか」を理解することは難しいです。
当然混乱してしまいます。
いち早くお互いが心安らかに過ごせるようになるためにも、ひとつひとつをお子さんのペースでゆっくり丁寧に教えていきましょう。
大切なのは、どのようなお子さんにも等しく生じる可能性があることを理解することです。
そしてさらに大切なのが、未然に防ぐ=「①できることは自分でする ②自分と同様に家族、他者を尊重する ③家庭、社会のルールを守る」ことを根気強く教えることなのです。
リトルエンペラー症候群の原因②:とにかく自分の意見を優先してもらえる子
気持ちの切り替えとは?
*すべての「気持ちの切り替えが苦手」に該当するものではありません。
障がい児者支援の場にいると様々な「気持ちの切り替えが苦手」に遭遇します。
次の作業にスムーズに取り掛かるためにお決まりの段階を踏まなければならない、パニックになってなかなか落ち着けない、等々。
特に「先天的な認知の障がい」を有するASDでは多いです。
彼らには状況認知への丁寧な介入や行動支援が必要です。
先天的特性により困難の種類も多種多様であり、ご本人や周囲にいる人たちの大変さも様々です。
大変さを少しでも軽減するためには、障がいの知識と特性への理解が必要不可欠です。
「周囲の人間が理解を示し対応を模索するところ」と「ここは自分で頑張ってもらうところ」の境界線を上手に見極め、ご本人とご家族が平穏な生活を送れるように支援しなければなりません。
しかしこのリトルエンペラー症候群の場合は少し違うのです。
彼らは「周囲の人間が理解を示し対応を模索するところ」を過剰に享受してきました。
そのためにこれまでに経験すべきだった「本人が頑張る」が、極端に少なくなってしまったのです。
それにより「納得し自分で頑張る」という気持ちが育っておらず、切り替えが難しくなってしまったのです。
見極めのポイントは「一方的な尊重への期待」
甘え上手だったり状況を読むことが上手なお子さんっていますよね?
久しぶりに会うおじいちゃんおばあちゃんにはたくさんおねだりして確実に欲しいものをゲットしたり(笑)。
体育の先生は怒ると怖いから真面目に授業を受けるけど、英語の授業では強く注意されないからふざけていたり・・・。
相手によって態度や行動を変えることができる。
これは社会性を有する動物の多くに見られるものであり、人間はその代表格です。
老若男女、また知的なレベルすらも問わず、様々な人が(できるレベルは異なりますが)可能なことです。
しかし成長と共に、社会の中で生きていくためにはそのような態度・行動はなりを潜めていきます。
経験を通して、「時に他人を傷つけ自分の評価を下げるものだ」と気付くからです。
その代わり「相手によって態度・行動を変えるのではなく、なるべく平等にバランスを保ってひとと接することの大切さ」を身につけていきます。
しかしリトルエンペラー症候群のお子さんの多くは、過剰に「自分の気持ちを尊重してもらえる環境」に身を置いてきました。
当然、「相手の気持ちを考え尊重する経験」が不足しています。
そのため「それなりに平等なバランス感」を確保できないまま年齢を重ねてしまうのです。
大きくなってからも自分が尊重されない状況には強い不安や不快感を感じます。
反対に自分が他者を尊重することはスマートにできません。
それだけのスキルが形成されてないのです。
小学生くらいから、よく「相手の気持ちを考えよう」って教えますよね?
これには共感力が必要です。
共感力は定型発達で言うと幼児期後期以降に形成が促進されます。
前提として、これには相手がどんな気持ちなのかを察する(認知する)能力がそれなりに必要です。
しかしそれがあろうがなかろうが「兎にも角にも自分の気持ちを尊重してもらえて当然な環境に身を置いてきた子」が「小学生になったから」「道徳の授業で習ったから」というだけで、相手の気持ちを尊重して行動することが普通にできるようになるでしょうか?
答えは勿論 NO! です。
「相手の気持ちを考えることは大事なこと」は散々教わり、頭には知識として入っています。
しかしそれを身体で実践する経験を積まなければ、知っているだけでいつまで経ってもできないままです。
一見できているようでも本人はかなり無理しており、いずれはなんとも言えない苦しさや不自由さを感じ不適応に・・・ということもあります。
「共感力」や「相手の気持ちや状況を察する能力」と、それをもとにした「行動」はセットのようでセットではありません。
どちらも持って生まれた器の中に、経験や気づき、学習、成功や失敗等々...を日々注ぎ入れながら獲得していきます。
それが積み重なっていった結果、自然且つスマートで相互的な対人関係の形成を日常的にできるようになるのです。
確かにお子さんにとって「共感・尊重してもらう経験」は重要です。
なくてはならないものです。
しかしそれを重視しすぎて「子どもなりの大変な経験や失敗」を疎かにし、「気づきや学習」を得る機会を省くことは良くありません。
何事も「バランス感覚」が必要なのです。
私はお仕事の合間に
「小学校はうちの子を尊重してくれない。担任の先生がちゃんと尊重して寄り添ってくれればできるはずなのに。できるように先生や学校がちゃんとするべきだ。あっちは何も分かっていない」
というような親御さんの訴えがあったと、よく耳にします。
そしてそのようなケースの中には、その後に不登校、引きこもり傾向を見せるようになるお子さんがいます。
これまでは相手や周囲に合わせるのではなく、合わせてもらいやってもらっていました。
それが小学校入学による環境の変化で激変します。
合わせてもらえません。
やってもらえません。
時にネガティブな経験は自他の認知を促進するエッセンスになります。
それまでにやってきていれば、ネガティブな経験にそれなりの耐性もあったでしょう。
しかしリトルエンペラーのお子さんにはその耐性はありません。
これまでよりも大きな組織の中で「ここにいる自分自身」「そこにいる同い年のみんな」を感じるのです。
似たり寄ったりの能力を持って同じ年数を育ってきたはずなのに、何かがこんなに違う。。。
不安を感じ不適応を生じてしまうのは当然なのかもしれません。
それを補うように、これまで通り「何よりも自分を尊重してくれていた家庭」の中に身を置こうと、お子さんなりに頑張り始めるのです。
これを心理学的ホメオスタシスのコンフォートゾーンと言います。
認知科学者の苫米地英人氏によると、「コンフォートゾーン」とは、心理的ホメオスタシスが維持しようとする従来の環境・ライフスタイルです。直訳すれば、“快適な領域”。コンフォートゾーンにいれば、まさに「温かい布団」に包まれるように、無理をせず快適に暮らしていくことができるのです。
「朝はギリギリまで寝ている」がコンフォートゾーンだとしましょう。この状態から「朝6時に起きてランニングする」習慣を始めようとしても、コンフォートゾーン外の “不自然な” 行動なので、ホメオスタシスが働き、「ギリギリまで寝ている」状態からなかなか抜け出せないのです。
「その際の頑張る姿」にはこれまでの養育体験が反映されています。
例えば
・本来お話は上手なのに、思い通りの理解や対応がされないと「ん~~~~」等の怒っているような言葉や表情・行動で不満を表出し、大人の注目や「どうしたの?」等の声掛けを引き出そうとする
・座り込んで大声で泣いてみる
・布団や押し入れの中に潜り込んで出てこない
・普段甘え口調でしゃべっていても、気が向かないことを促された途端に暴言・暴力で延々と反抗する
・とにかく口が達者で無理やり感が強い屁理屈をこねてでも我を通そうとする
とか・・・
それはもう、ひとりひとり多種多様で大人を振り回してくれます。
「大人が困惑するような態度」をする理由
定型的には、年長さんくらいになると「社会的善悪の概念」がある程度形成されます。
そして小学校入学以降は認知機能がさらに発達し「おともだちの目」を気にするようになります。
所謂「赤ちゃんみたい」だったり「わがまま」を表す行動は恥ずかしいと認識するようになるのです。
そのため「嫌だから」という理由で人前で駄々をこねたり泣いたり喚いたりするような行動は、あっという間に減少します。
しかしなかには、言語能力や社会的なルールの認識が年相応で、普段は自分の気持ちをしっかり言えたりルール違反をしている人に向かってはっきり注意できるようなお子さんでも(←これを「正義感が強い」と評価されているんですが)、
自分もやって当然な、しかし「気が乗らない」「面倒な」ことを促された途端「赤ちゃんみたいな行動」や暴言・暴力をしたり、前向きな声掛けには何がなんでも全否定する
という行動をすることがあります。
あの手この手を駆使するので、大人(特に親)は毎回困惑してしまいます。
しかし冷静な第三者から見たら、暴言・暴力も「あーでもない、こーでもない」の屁理屈も
明らかな「論点ずらし」でしかないということがほとんどです。
例えばお子さんのある暴言に対して
親「どうしてそんな言い方をするの?」
子「言ってない。そんなことは言っていない」
親「たった今はっきり言ったでしょう」
子「俺が嘘をついているっていうの?母さんは俺を嘘つきだと言っているんだ」
親「そんなことは言っていない」
子「嘘だ。母さんは俺が嘘つきだって言いたいんだろ!いつもそうだ。母さんは俺なんかいなくなればいいと思っているんだ」
親「そんなことない。母さんはあなたのことを大切に思っている」
子「嘘だ。母さんの嘘つき!」
という具合に、言葉や行動への注意から全く違う類の話に上手に転化します。
そして「問いただす側」/「答える側」の立場もあっという間に逆転させてしまいます。
会話の主導権を瞬時に自分のものにしているのです。
会話としてはとても自然な流れなのですが、実は「論点を戻されない」「会話の主導権を取り返されない」ように本人は必死なのです。
親が再度暴言について話を戻そうとすると
「やっぱり嘘つきだと思っているんだ!」
と無限ループに自ら陥り、延々と話をはぐらかそうと誘導します。
「論点ずらし」を指摘されたとしても、そこからさらに論点をずらそうとします。
本人は話し合いの中で問題となる部分、注目されては困る部分は分かっているのです。
ある意味ではこのお子さんは認知機能がしっかりしていると判断できます。
「不自然なくらい自分の非を認めず屁理屈をこねる」というお子さん程、本当は「何故注意されているのか」、その原因を理解できています。
ADHD自体に認知機能の障がいはありません。
上述したように「この状況でコレをすべきではない」ということは判断できるのですが、衝動性が強く一連の行動を完了することが苦手である為、ついつい「今は正しくない行動」をしてしまいます。
そして本人は直後に状況と行動の差に気付き、自分を責めることが多いです。
ADHDは「行動の障がい」なので、
「行動の仕方を細分化して ➡ ひとつひとつをスモールステップで習得・強化 ➡ 一連のものとして繋いでいく支援」
をすることにより困難感は軽減していきます。
その過程で親御さんや支援者は、経験や知識を用いて「社会的に適切な行動を教える」という教育的関りをするのです。
話を戻しますが、リトルエンペラー症候群は「問題となる言動・行動すらも尊重してもらえる自分」を求めているのです。
「どんな自分でも受け入れてもらえる」という感覚は親子関係を中心に形成されます。
これを受容的関りと言います。
受容的関りは愛情的価値観を基準にして行われます。
受容的関りも教育的関りも、親子間では必要不可欠です。
どちらかかが欠けていたり過剰であると、子どもの価値観や行動の形成に問題が生じてしまいます。
大切なのは両者のバランス感。
そして両者のバランス感を最も適切に子どもに示すことができる大人は、やはり親なのです。
しかしリトルエンペラー症候群の特徴は
その大人に対して受容的関りをするように求めながらも教育的関りは拒否する
というところにあります。
上記会話での問題は
・お子さん自身は間違いを分かっているのに後悔・反省の態度を示さないこと
・大人はそれに向き合いながらも、「失敗しても自分できちんと正せば受け入れてもらえる」と実感できる受容的関りと「自分で正す為の行動を教える」教育的関りのバランスが崩れていること
・「正しい言動・行動」は知っているし、それを求められていることも気付いているが、実際どのようにすればいいか分からず、理想と現実の狭間でお子さんの感情は混乱していること
・認知機能があっても、感情の混乱により相手の気持ちまで思いが及ばないこと
・相手を非難したり言うことを聞いてもらったり宥めてもらうことにより自分の気持ちを落ち着かせようとしていること
・最初はそれで成功することもあったけれど慣れてくるとそれだけで収まらなくなる。同じような状況を繰り返しながらお互いにどんどんヒートアップしていってしまうこと
・結局お子さんに振り回されるだけで、親は主導権を持たないままでいること
・「受容的関り」「教育的関り」両者のバランス感は欠如したままであること
にあります。
会話の主導権を常にお子さんに持たせ、終始お子さんの発言に合わせて対応する大人の対応も問題です。
お子さんの為に「寄り添う」対応をしているつもりかもしれません。
しかし結局はお子さんを混乱させ、それを常態化してしまっています。
本来「寄り添う」行為は相手の不安や辛さを和らげるものです。
「寄り添う」対応をしていてもお子さんの問題行動はどんどん悪化していく。。
問題行動の悪化により社会に居場所を見いだせなくなる。。。
という状況ならば、それは「寄り添う」ではないのです。
「服従」でしょう。
また、ASDの人は相手の気持ちに気付くことが苦手という特徴があります。
これは「認知の障がい」からきます。
先天的なものなので状況や相手に関係なく「いつもそう」です。
だから療育施設等はSST等様々な技法を駆使して、本人が有する認知機能に合った「気付き」と「対応」の学習機会を提供しているのです。
対してリトルエンペラー症候群そのものには、先天的な認知の障がいはありません。
相手が嫌な気持ちになることを分かっていて、敢えてそのような言動や行動をしてその反応を窺うこともあります。
やりやすい相手を見定めてやっているのです。
自分が主導権を握ることができ、自分の言動・行動に振り回されそうな人だけを、です。
先述の暴言についても同様です。
相手を傷つける暴言を言っても、結局は受け入れてくれるか、振り回されながらも食いついてくるか、最後は泣き寝入りしてくれる相手か、自分がいる場所はそういう環境かどうかを見ています。
即ち、自分にとって「そうして良い相手なのか」「労力への費用対効果はあるのか」を常に気にして確認する行動を繰り返しているのです。
ここで大人の重要な対応はただ一つです。
お子さんの苦しみを「理解しながらも過剰な反応や対応をせず、親として教えたことを本人に行動させる」。
- お子さんの論点ずらしのパターンを冷静に把握し
- 話し合いでそれに乗せられることなく、毅然と対応し
- 問題点の対応は自分でさせる
注意すべきは、「お子さんに否を認めさせることに注力しない」ことです。
ここに注力する対応は、教育的関りではありません。
これをしてしまうと感情の混乱はますますひどくなる可能性があります。
そもそも本人は否であることは分かっています。
それを認めた上でどのように対応すればいいのか分からないから、認められないのです。
お子さんが抱えてしまった辛さや苦しみを受け止めながら、「間違いをしても正す行動(相手に謝るとか今後は気をつけるとか)をすれば大丈夫」であることを伝え、「これからどうすれば良いか」を教え、実践・行動するように促しましょう。
そして会話の主導権はお子さんではなく大人が持ちます。
「どうすれば良いか」が分からないお子さんが主導権を持っていても、みんな一緒に迷子になるだけです。
何故なら彼らは、自分の「思い通り」にしようと一生懸命頑張ってはいますが、「思い通り」の先に何があるかまでは分かっていないのです。
そこまでの経験や知識はないのですから。
主導権は本来、経験や知識を得て、方向感覚を養ってから持つもの。
そして大人は「社会的善悪を伴う自分の論点」を持っています。
それは自分なりの経験や知識から得たものです。
本来はお子さんの言葉に振り回されずに自分の軸・立ち位置を明確にし、進むべき方向性を示せるはず。
遅かれ早かれ家庭でも社会でも適応できなくなる
お子さんの言動・行動に「振り回され」、「合わせてあげる」対応をしていては、大人は善悪に合わせて「自分の軸を持つ」「立ち位置をしっかり保つ」ことを示すことはできません。
大人の揺ぐことのない善悪や規範を見ずに育ったお子さんは、自分の内にそれを形成することはできません。
善悪や規範の形成が不十分で、または教えられただけで行動できず、自分の欲求を我慢することなく好き勝手に振る舞い、他者がそれを受け入れるよう求めれば、社会の中では当然孤立してしまいます。
一時的に理解を示し受け入れようとするひとが現れたとしても、その言動・行動に振り回されて苦しみ、いずれは距離を置かれフェードアウトされ、誰もいなくなるのです。
もしもここにいじめ等のはっきりした原因があるならば、まずはそれに応じた対処をすべきです。
根本はリトルエンペラーとは関係ない状況なので。
しかし学校にも家庭にも当の本人にもはっきりとした理由が分からずに余計大人が困惑してしまうパターンが、現実には結構多いです。
そしてさらに多いのが
「はっきりとした理由が分からない
=先生やクラスと合わないのだろう
=先生や学校はうちの子の対応をきちんできていないのではないか
=先生の能力が低い。学校が良くないに違いない」
という思考です。
学校以外の活動の場(療育の場等)を確保する際の親御さんの要望に
「うちの子に合わせてください」「うちの子が機嫌よくいられるようにしてください」
という言葉があったとよく耳にします。
しかし個別支援を謳っている施設ならまだしも、学校も施設も多くはお子さんの数に対して職員は不足しています。
沢山のお子さんがいる中で、職員一人が特定のお子さんに合わせて業務をこなす余裕はありません。
安全面の確保すら危うくなります。
またお子さんの状況を見て「個別対応をしていれば良いわけではない」ということも、経験ある現場の人たちはよく分かっています。
しかし無事にそこでの生活や活動をスタートしたとしたとしても、本人は3ヶ月もしないうちにその場所を拒否するようになります。
支援開始時間前になると、急に不機嫌になったり泣き叫んだりして自宅や自室から出てこなくなるのもよくある話です。
第三者に見られたら恥ずかしいまたは相手にしてもらえないものでも「家族ならば尊重してくれる行動」をして、自分の言い分を優先し我慢してもらえる環境に居ようとするのです。
最初は宥めるように対応すればなんだかんだで行くこともあります。
しかし宥められることにも段々慣れてきます。
次第に「その程度の宥め方じゃ納得しない」「もっと頑なな行動をすれば尊重しようとするかもしれない」「尊重してくれない場所なら行かなくて済むようにしなくちゃ」「大声を出したり暴れたりすれば大人は黙って諦める」
と、どんどんエスカレートするものです。
このパターンは家庭内暴力に繋がる可能性があります。
このパターンをいくつか見聞きしてきて
DVする人って「赤の他人には相手にしてもらえない」タイプが多いんだろうな~
と思う今日この頃です。
彼らは「我慢ができない」のではありません。
「我慢したくないから、してこなかった」のです。
もう時間と忍耐力の勝負です。
こうなってしまうと
「どちらが先に根負けし折れるか」
「如何に我慢しなくてもいい関係を維持できるか」
「どうすれば自分のいうことを聞かせるか」
つまり「どちらが上か」
焦点はそこに絞られます。
結局お子さんは、この勝負に乗ってくれて、最終的に根負けするであろう人に依存するようになっていきます。
というか、その人がいる場所に自分も一緒にいようとします。
いないと不安になります。
だから他の場所には行けないのです。
上下関係がはっきりとしていないと、自分が「上」でないと、我慢する必要がない関係でないと安心できないのです。
言動や態度とは裏腹に、年相応の社会経験が少なく実行力・対応力も育っていない自分に自信がないから。
そこにある現実を理解することはできても、不安に自分自身で向き合い、我慢し、自分の足で踏み出すことはできないのです。
「下」の助けなしに、自分の力で現実に対処することが怖いのです。
大事なのは、「上」でも「下」でもなく、程々の我慢と理解・尊重の元にある「お互い様」の感覚なのに。
我が子もリトルエンペラー予備軍
偉そうにいろいろ書きましたが、何を隠そう我が家の1番っ子もリトルエンペラー傾向がある子です。
知的にも言語的にも屁理屈をこねられるほどの能力はありませんが、以前は不満を一生懸命行動で表そうとしていました。
自宅では飄々としている子ですが、社会生活の中では自信なさそうにオドオドしていることもしょっちゅうです。
それでも少しずつ自分の力で前に進もうと、今頑張っているところです。
まとめ
たまに「友達親子」という言葉を耳にします。
反抗期を迎えているであろうお年頃のお子さんとも友達のように仲良し。
素敵なことです。
しかし思春期における「友達」とは、本来「受容的・教育的関わりの後に親から心理的な自立を図ろうとする子どもたちが、自己を確立する過程で互いを支え合う存在」です。
その役割を、自立を見守り距離をとるべき親が担うということは、些か本末転倒であるようにも感じます。
ときとして親は、「親だからこそできる役割」を果たさなければならないことがあります。
学校の先生や児童福祉関係職員では難しい役割です。
お子さんに障がいがあろうがなかろうが関係ありません。
親はどんどん老いていきます。
そしてお子さんより早く死にます。
もしかしたら明日には事故に合ってこの世の人でなくなっているかもしれません。
その時に「自分の代わりにやってくれる第三者」なんて、この世には存在しません。
色々な問題を抱えるお子さんたちを見てきて、私が言いたいことはただ一つです。
多様な子育て論が世の中にあふれていますが
リトルエンペラーには、しちゃいけません。
子供を苦しめ、孤独にするだけです。
↓↓↓はリトルエンペラー症候群脱出作戦に関する記事です。
宜しかったら読んでみてください☆
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